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歴史・文化財

 

保科正興の塚(ほしなまさおきのつか)

関連用語:鹿瀬、町指定史跡、保科正興、さすらいの丘

 日出谷水沢の高松家の裏山は‘さすらいの丘’と呼ばれ、ここに会津藩家老保科正興の墓が立っています。
  正興は藩の家老職に就きながらも政争に敗れて失脚し、貞享3年(1686)、三十八のとき水沢の地に配流され、許されることなく『家世実紀』では元禄3年(1690)、地元の言い伝えと墓石の刻印では元禄2年にこの地で没したと言われています。その時に建てられたと思われる旧墓石は十字に切断され、倒れたまま現在も地面に置かれており、政争のすさまじさを物語っています。
  正興は村の子どもたちに読み書きを教え、干ばつのときには山に登って雨乞いをするなど、村人から「民部さま」と呼ばれ親しまれました。正興が謹慎した高松家に残る辞世の歌は、今もさすらいの丘に眠る正興の悲哀を伝えています。

ほたるひを したへとくらき なつのよの まつかせをちつ さすらいのおか

*各行の頭尾をとると、「保科正興の塚」となります。

 正興は十五歳で元服し保科家を継ぐと、二十七歳のとき家老職となり、藩政において重きをなしました。しかし三十七歳のとき、突如家老職を解かれ国許会津に蟄居を命ぜられ、翌年には全知行を召し上げられるとともに罪人として日出谷・水沢の地に流刑となりました。
  藩の重罪人となった理由としては、藩主・正之の侍妾で後に継室となった‘お万の方’、後の聖光院の専横を阻止できなかったことに起因すると考えられ、しかも正興の後妻が聖光院の姪であったために、正興はいわば聖光院の身代わりとなって処罰されたと言われています。

保科正興の塚詳細
  • 種別:町史跡
  • 名称・員数:保科正興の塚 1基
  • 指定年月日:平成17年4月1日
  • 所在地:日出谷甲2278(鹿瀬地区)

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