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歴史・文化財

 

草倉銅山坑夫の墓(くさくらどうざんこうふのはか)

関連用語:町指定史跡、龍蔵寺、友子、鹿瀬

 草倉銅山は元文4年(1739)の発見が始まりと伝えられ、江戸時代には会津藩随一の山と言われました。明治に入ると古河鉱業の創立者で後に「銅山王」と呼ばれる古河市兵衛による経営となり、新しい技術の導入によって産出量が年間1.083トンにまで達するなど隆盛し、周辺には6,000人余りの人が暮らしていました。
  しかし銅山で働く坑夫たちの多くは坑内での落盤や陥落事故、鉱塵などにより短命であり、こうした中で技能伝授と自治・救済などの機能をもった集団組織=「友子」が成立しました。友子の坑夫が死亡した場合には供養や遺族の世話などが受けられ、親分が子分の、子分が親分の墓を立てるのがならわしでした。
  磐越西線鹿瀬駅から東に0.5キロ行った龍蔵寺の境内には、銅山で働いていた大親分、坑夫・坑婦、幼年坑夫・坑婦の墓地があります。同一事故で異なる日に亡くなった者の複数墓や藩政時代の墓など全て入れると国内最大規模の200名以上の墓が残っています。
  大正3年(1914)の休山により、弔う人のいない坑夫たちの無縁仏供養が今でも毎年7月15日に龍蔵寺でしめやかに行われています。

草倉銅山坑夫の墓詳細
  • 種別:町史跡
  • 名称・員数:草倉銅山坑夫の墓
  • 指定年月日:平成17年4月1日
  • 所在地:向鹿瀬1834(鹿瀬地区)

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